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ひとつのインタビュー 覚 和歌子さん

テキストマガジン「ひとつ」に掲載された覚 和歌子さんのインタビューをこちらに掲載いたします。

□ひとつのインタビュー第一回
           覚 和歌子さん
「ポエタロ」と詩作、その宇宙 その 1

「ポエタロ」を引いたことがありますか? 「ポエタロ」は「ポエムタロットカード」の略。今の自分の状態や、これからどうすればいいのかなど、心に質問を思い描いて引くと、その答えが現れてくる不思議なカード。このカードの言葉を作ったのが覚 和歌子さん。

覚さんは宮崎駿のアニメ「千と千尋の神隠し」の主題歌である「いつも何度でも」を作詞した詩人です。どうしてポエタロを作ったのか聞きました。

詩は生まれるもの

ポエタロのようなカードを一般的にオラクルカードといいます。いろんな種類がありますけど、友人がお土産に持ってきてくれて遊んだことがありました。ちょうど年齢的な心身の不調の渦中にいた頃なんですが、意外にもそれでけっこう気持ちが救われたんですよね。これは人の役に立つものなんじゃないかと思い、自分でも作ってみようかなと思いました。

____こういうカードを作るのは、何かとても難しいことだと思うのですが、どのようにして作ったのですか?

基本的には詩作と同じです。難しいとも言えるし、“ゾーン”に入れれば楽しいとも言える。引いて出てくるカードとの出会いは一般には偶然だと考えられるかもしれませんけど、ユング的に言えばシンクロニシティであり、そこには何らかの意味がある“必然”です。詩が生まれる瞬間も、自我で思考するところから作るものじゃなくて、ふと湧いたアイディアであればあるほどエネルギーがあって、意味が重層的で、この世に生まれるだけの必然性がある。わたし自身それが実感として感じられるから、そういう具合に生み出すことさえできれば、出てくる言葉を信じられる、ということだと思います。

____詩作もシンクロニシティなどで必然的に出てくるものなのですか?

少なくとも詩は作るものではないと思う。ふと生まれるものでありたいですね。リラックスしていると生まれやすいだろうなとは思います。たとえば、誰かの歌を作詞するときは、あの人がこういう状況で、こういうメロディーに乗せるための歌詞とかって初期設定がありますけど、実際の執筆現場ではその初期設定を手放してどこかからやってくる瞬間をただただ待つ作業なんです。待つのに一番いいのは、八ヶ岳のアトリエに行くことですね。あそこだと作る苦労がほとんどない。アイルランドの伝説なんかに一晩たつと靴ができていたりするって話があるじゃないですか。そういうふうに助けてくれる見えないエネルギーが八ヶ岳にはあるような気がします。東京で書こうとすると苦行になるんですけど、山だとそれが喜びになるので。(笑)

____そういう詩に対する感覚はいつ頃から持ったのですか?

明確にいつからというのはわかりませんけど、幼い頃からカンの強い子で、見えないものの存在を意識下で肌触りとしてキャッチしていたような気がします。そのせいかどうか、肉や魚が嫌いで一切食べられなかった。それから、これは最近のことですけど、アイルランド民謡の音階に心が異常に惹きつけられたりとか、ふと行ったバリ島に毎年五年間も長期滞在することになったりとか、直感的な感覚に従うという習性はあります。そういうふうに関わっている出来事が今生のたった今の瞬間の出会いだけではなく、生まれる前から積み重ねられたものの結果としてあるんだなって考えると妙にしっくり来る。そういう感覚と詩に対する感覚とがつながっていますね。

20年くらい前に突然アイルランドに惹かれるようになったとき、アイルランドの西にすごく気になる島があって調べたらシュケリッグ・ヴィヒル(英語名スケリッグ・マイケル)という名前でした。もう気になって気になって仕方なくてさらに調べたら、そこは修道島で、石を積み重ねてできた房(ぼう)がたくさんある。その中にこもって修道僧がどんな修行をしていたのかというと、聖書の詩編を書き写すということをしていた。ああ、わたしもそれをしていたんだ、だからこんなにたまらなくなつかしいんだと思ったとたんに胸がいっぱいになって。これほどまでに惹かれるのは一回だけの転生じゃないなとも思う。でもなぜか島にはまだ渡れていません。

ポエタロは楽しむもの

____そのような話を信じる人もいれば、信じられない人もいるじゃないですか。信じられない人たちにはどうやってそのようなことを伝えるんですか?

40名くらいのボランティアチームにポエタロを持っていったことがあるんです。そのボランティアチームって天体観測が趣味で集まった仲間だったんですね。その人たちに「引いて出てきたカードとの出会いは単なる偶然ではなく必然で」って言ったときに、全員がドーッと笑ったんです。ああ、理系の人たちってこういう反応をするんだと思って、すごく面白く思いました。試しに引いてもらうことにして27歳の女の子が「僧侶」というカードに当たりました。そしたらその40人がざわざわっとどよめいたんです。私には意味がわからない。で、聞いてみたら、彼女に最近彼氏ができたと、その話題でボランティアチームが盛り上がっていたらしいんです。その相手があろうことか“お坊さん”だった。(笑)

次に、小学校六年生ぐらいの娘を連れて来てたご夫婦がいました。娘はまだヒヨッ子なのでピヨちゃんと呼んでくださいと紹介をしたんです。その娘さんに引いてもらって出たカードが「鳥」でした。またみんなが「へぇーっ」と驚きました。三つ目が極めつけで、ペンションをやっている女性で、八年くらい前に癌で旦那さんを亡くしていた人がカードを引いたら「幽霊」ってカードが出たんです。このカードは「気づいてほしい わたしここにいる」っていう文言になってるんですけど、なんとその日は、亡くなった旦那さんと彼女の結婚記念日だったんです。

ついでに言うと、47枚の中の一枚だけ「鳥」のカードは、谷川俊太郎さんの詩なんです。企画書を作ったときにダミーとして入れたのをそのまま使わせていただきました。出来立てのポエタロをはじめて谷川さんに引いてもらったら、「鳥」が出てきました。(笑)

まあ、だからと言って誰もがポエタロを信じてしまうかと言ったらそんなことはないんですけど、こういうポエタロエピソードは枚挙にいとまがないので、興味を持ってくれるようになる人もいます。

____覚さんはそのようなことを信じてもらおうとするのではなく、その状態を一緒に楽しむのだなと感じました。その神髄は詩の朗読にあるようです。次回はその詩の朗読に関してお話をお聞きします。お楽しみに。

ポエタロガーデン https://ameblo.jp/poetarocard/
アマゾンポエタロのページ http://bit.ly/poetaro
覚 和歌子さんのサイト http://kaku-wakako.com/

□ひとつのインタビュー第二回
           覚 和歌子さん
「ポエタロ」と詩作、その宇宙 その2

もともと詩は祝詞が起源だという覚 和歌子さん。神様とやりとりする言葉があって、詩がポエタロのようなオラクルカードと結びつくというのは当たり前のことだと思っているそうです。

詩の本質は震えを許す空間

普段の詩作活動がシャーマニックだと言えますね。わたしは「朗読するための詩」「黙読してもらう詩」「歌に乗せる歌詞」と分けて考えていて、さらに「自分が歌う歌詞」と「自分以外の歌い手のための歌詞」と区別があります。それぞれ意識的にチャンネルを変えて書いています。

ときどき自分のライブを自主的に開くんですけど、実は歌うのがそれはそれは怖い。でもどういうわけかやらずにいられないんですよね。ここが自分でも興味深くて(笑)。小学校の頃所属していた合唱団から先生に推薦されて、TBSの独唱コンクールに出る機会があったんです。スコットランド民謡の「峠の我が家」を歌いました。練習では本当に上手に歌えたのに、本番ではアガってボロボロでした。それがトラウマになってしまったみたいで、それ以降ずっと人前では歌えなくなっちゃった。「ボーカリストは自我との戦いである」というのは、うちのギタリストの至言なんですが、歌うことをやめないのは歌うことで自分が見えて来るからです。自我の手放し加減とか、肚のくくり具合とか、歌の現場は「鏡」ですね。剥き身の自分を突きつけられる。

四つの詩、つまり「朗読するための詩」「黙読してもらう詩」「自分で歌う歌詞」「歌い手さんのための歌詞」は生まれてくるチャンネルが違うんですが、行間にエネルギーを宿したいという点では共通しています。たとえば、肉体の細胞を原子量子という極小へ向かって突き詰めていくとそこには「場」つまり振動しか残らないって言いますけど、詩の行間と地続きだと思っています。行間も、細胞のあいだの隙間も震える、つまり“歌っている”。その震えこそが本質だと。目に見える言葉や触れる細胞ではなく、その行間や隙間に存在するバイブレーションの方が本質なんだと。詩はわかりにくいものだと言われがちですけれど、意味が飛ぶその距離にこそ詩の本質があるんですよね。だから詩は考えるんじゃなくて味わうしか付き合う方法がない。(笑)

いま母の介護を父と協力してやってる日々です。父はずっと公務員、枠組みの中で生きてきた人なので、創作というセンスが皆無な人なんです。二分後に記憶をなくしてしまう母に、その時々で上手な嘘をついて、その場をまとめるということができなくて、エンドレスな母の問いかけに対して真っ正直に答え続けて、しまいには母を逆上させてしまう。そういう父を見ていて、本当にこの人、嘘をつかないで生きてきたんだなって、嘘のつき方知らないんだなって呆れたんですけど、ある意味それは素敵なことで「天使みたいな人生」だとも言える。でも、この天使を支えているのは創作という嘘で糊口をしのいでいる「悪魔」の私なんだって思ったらおかしくて。そう思ったら、この世はたしかに二極で成立しているんだけど、二つの属性のこの距離を俯瞰してとらえるまなざしが融合を連れてくる本当の意味でのクリエイションなんだなって。

朗読の現場は一期一会

朗読すると感動してもらえる。歌うときと違って、余計なことを考えない無に近い状態で読んでいるからかもしれない。

周囲の状況が細かいところまで把握できている落ち着いた精神状態で読んでます。なのにテンションは高いという、理想的な状態でステージにいる。歌うときとはまったく違う、これって何がどう違うの?って考えるんですけど、よくわからない。共振性の高い場を作り出せる能力があるんだと思います。人の話につい涙ぐんでしまうことも珍しくなくて、作品についても共感度の高さをよく言われます。相手の気持ちを憑依させやすい、感覚に共振しやすいというか。それって下手をすると“悪い仲間に染まりやすい”なんてことにもなるんで、若い頃は状態のよくないときもありました。良くも悪くも巫女的だと思う。その性(さが)が役に立つのは、自分じゃない歌い手の歌を作るとき。その人の視線に立って、その人の目から見えたもの、感じたことを言語化するとき。その歌手の台詞を書くみたいな感覚でしょうか。

朗読していると心が震える、なんとも言えない感覚になることがあるんですけど、たぶん同時に観客の心が震えてくれているからなんだと思います。「わたしが詩を朗読」して「お客様がそれを聞く」という分離した感じではなく、「わたしが聴き手のように朗読を聞きながらお客様があたかも自分で朗読している」かのようなトランス状態が生まれるんです。“ゾーン”に入って双方がひとつになる。会場が一体化する。そういう実感は結構あります。現場は一期一会だから、そのたびに命がけであることは間違いないと思います。

____ポエタロのサブタイトルは「いのちの車輪をまわす言葉」。覚さんの言葉に対する感覚について聞き、なぜいのちの車輪をまわすのか、わかったような気がしました。

聞き手 つなぶちようじ

オトナサローネに覚和歌子さんのエッセイが掲載されました。
「迷い悩み、立ち止まる私たちに「ことば」はいつも寄り添う【覚 和歌子エッセイ】」
https://otonasalone.jp/80684/

ポエタロガーデン https://ameblo.jp/poetarocard/
アマゾンポエタロのページ http://bit.ly/poetaro
覚 和歌子公認公式ファンサイト 風雲うたよみギムナジウム http://kaku-wakako.com/top.php

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