隔月刊誌「湧」270号(2011年7-8月)に、「まだ、まにあうのなら」の著者、甘蔗珠恵子さんが寄稿してくださいました。ここに全文(加筆有り)掲載させていただきます。
それでも「まだ、まにあうのなら」
甘蔗珠恵子
「想定内」の事故
福島第一原子力発電所の事故は、「想定内」のことでした。以前から指摘し、警告されてきたことを、国や電力会社が一切無視し、聞く耳をもたなかっただけです。その罪は、はかりしれません。
二十五年前、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故が起きたとき、原子炉の爆発炎上で、放出した放射能は軽く国境を超え、ヨーロッパのみならず、北半球全域に及びました。
当のソ連はいうに及ばず、各国の食料汚染はすさまじく、どの国もその対策に追われ、国民は毎日の食事にいや応なく放射能に汚染された食べものを食べざるをえませんでした。食べもの、飲みもの、吸う空気から放射能を体内にとりこみ、内部被曝
によって胎児、赤ちゃん、子どもたちは甲状腺がんや白血病などに冒され、次々に幼い生命を奪われていったのです。健康被害は百万人、あるいはそれ以上にのぼるといわれていますが、はっきりとしたことはわかっていません。
原発から三十キロ圏内の十三万五千人の住民は強制移住させられ、いまだに人の住めない土地です。
日本では、福島の飯舘村で、チェ
ルノブイリ強制避難区域の二倍、浪江町赤宇木で三倍の放射能が検出されています。
一九八六年、チェルノブイリ原発事故後、広瀬隆さんの講演を聴いた時の衝撃がきっかけで、原子力発電についての講演を聴いたり、関連の本を読みあさって知れば知るほどその不条理さと恐ろしさに凍りつくようでした。奈落の底へ突き落とされた思いで悶々とした日が続きました。
というのも一般にはその事実が知らされていないのです。一方的な「安全神話」「必要神話」のみが洪水のように流されている現状でした。
そのような中で思い余って書いた手紙が、『まだ、まにあうのなら―私の書いたいちばん長い手紙』というタイトルのブックレットになって地湧社から出版されました。書店には置いてありませんでしたが、読んで共感してくださる人がクチコミで人から人へと伝え、五十万部という信じられないような広がりになったのです。その多くは子どもを持つ母親達でした。
原子力発電はいのちに反する
私が、原子力発電を「いらない!」と思い、「あってはならないものだ」と思うのは、原子力発電がいのちに反するからです。
放射能は生命と共存することはできません。地球の生態系を狂わし、
生命を滅ぼします。
私達は三十六億年をかけて脈々と
生命を受け継いできました。生命は一つ一つの細胞にある遺伝子に引継がれ、進化し、今日に至っています。
しかし、放射能はその大切な遺伝子を傷つけ、変化させてしまいます。そして、じわじわと生命を蝕み、やがて滅ぼしていきます。原子力発電をすると、放射能が必ず膨大な量つくり出され、しかも放射能の毒を消す手段を人間は持っていないのです。
この地球があって、多くの生命があって、その上で人間も生かされ、生きている―。これは思想ではなく事実です。その人間が生きているという上に、政治も経済も文化も、かくありたいと願うこともあるわけで、生命の安全が人間の経済活動より軽んじられているのは本末転倒しています。
そもそも「原子力発電」というものは何かというと、ウランという放射性元素を原子炉の中で核分裂させ猛烈な熱を発生させてお湯を沸かし、その水蒸気でタービンを回して電気をつくる装置です。
問題なのは、ウランを核分裂させるので必ず放射性物質(死の灰)ができます。そのために核分裂を「止める」、原子炉を「冷やす」、放射能を「とじこめる」という複雑な技術が必要になり、それに伴って設備も複雑で巨大にならざるをえず、他の発電法とはケタ違いに費用も莫大なものとなります。なぜウランを燃料とするのかというと、そもそも「原子炉」は、ウランを核分裂させて、自然界に存在しない、猛毒で、核爆弾の材料となる「プルトニウムを生産する」ためにつくられたものだからです。その核分裂で生じる猛烈な熱を発電にも利用しようとしたのです。
何が原因であっても、今回の福島第一原発のようにいったん事故を起こせば、放射能が風に乗って広範囲にバラまかれ、空気も水も土地も動物も植物も一度にすべて汚染してしまい、人が住むことのできない土地にしてしまいます。生活を根こそぎ奪われます。人体にとり返しのつかない被害を及ぼします。現に今、日本でそれが起こり、事態は収束どころか進行し、深刻化しています。
風評被害ではなく、実際の被害
これからは、食品汚染が広がっていきます。国は基準を高くして、それ以下なら安全として流通させています。
福島原発事故以前の世界の水道水放射線基準は、WHO(世界保健機構)が1 あたり1ベクレル、ドイツ水道協会〇・五ベクレル、アメリカの法令基準〇・一ベクレル、日本はヨウ素一〇ベクレル、セシウム一〇ベクレルでした。
それが福島原発事故後の三月十七日から急きょ、ヨウ素三〇〇ベクレル、セシウム二〇〇ベクレルと、二〇〜三〇倍に引き上げられました。人体が急に放射能に強くなったのでしょうか。
二十五年前のチェルノブイリ原発事故で、日本にも放射能汚染食品が輸入されてきたので、厚生省は基準をもうけました。一sあたり三七〇ベクレルでした。それ以下のものは安全だとして国内に出回りました。それでも基準が甘い、検査がずさんだとの声が上がったのですが、国は福島原発の事故後急いで、野菜と魚介類のヨウ素基準を二〇〇〇ベクレルにしました。それ以下の野菜、魚介類は安全だから食べてもよいと決めました。セシウムでは飲料水、牛乳、乳製品が二〇〇ベクレル、野菜、穀類、肉、卵、その他はすべて五〇〇ベクレルになりました。
世界各国の基準値はまちまちです。このことからも、これらの基準値は安全値ではなく、その国々の思惑値であると推察されます。核や原発を持っている国は、国民の健康を守ることよりも、原子力発電を推進することに重点がおかれているように思われてなりません。
これから全食料、食品を確実に測定し、公表することを国は省くでしょう。市民自らやるか、自治体を動かして測定するしかありません。風評被害という言葉が盛んに報道され、口にもされましたが、これは風評被害ではなく、実際の被害なのです。辛いことですが、生産者には認識していただきたいと思います。今まで安全でおいしい作物を育てることに誇りを持ち、消費者に喜んでもらうことをめざして努力されてきた方たちのことを思うと胸が痛みますし、このようなことになってしまったことに激しい憤りを覚えます。放射能に汚染された作物、魚介類などは、すべて東京電力が買い取るのがすじだろうと思います。東京電力が自分の発電所で起した事故による被害なのですから、原因はハッキリしています。放射能に汚染された食べものなど誰にも食べさせるべきではないと思います。
ですが、ほとんどの人は、国の基準値をやすやすと受け入れ、それ以上考えないようにしているように見えます。それですむ問題でしょうか。ロシア、ヨーロッパではチェルノブイリ事故後二十五年経っても、未だに汚染が続き、高い放射能値が出つづけている食品もあるのです。
内部被曝から
子どもたちを守りたい
広範囲で、空気も土壌も海水も汚染されましたので、普通の生活をしているだけで、いずれ内部被曝による健康被害が出てくるでしょう。早急に妊婦、乳幼児、子どもたちだけでも放射能から守る手だてをとるべきです。避難が必要です。
国は低線量被曝の危険性を無視しています。人体への許容値を年間二〇ミリシーベルト、毎時三・八マイクロシーベルトと決めましたが、とんでもない値です。国際的な取り決めは年間一ミリシーベルトです。子どもはその十倍の配慮が必要です。
放射能は味もにおいも色もない、人間の五官では感知できないものですし、すぐにはからだに影響が出ないので受けている被害を実感できません。一見、何も変りませんから―。
この現実をどう受けとめたらよいのでしょう。誰も放射能に汚染されたものなど食べたくないのに―。放射能の中で生活などしたくないのに。
母乳から検出されたのですよ! 放射能が―。二五〇キロ離れた東京でも―。そしてとうとう福島の子ども達の尿から放射性セシウムが検出されました。
二十五年前の、ソ連の、そしてヨーロッパのお母さんたちと同じ思いを日本のお母さんたちもしているのです。わが子の生きていく未来がよりよいものであるよう願い、慈しみ育てるのは万国共通。その基本は、まず、生命の安全。安心して生きられる基盤である、自然環境の健全さでしょう。天の災害なら止めることはできませんが、なにも人間自ら自分の首を絞めることはないでしょう。
今すぐ、すべての原発を止めて
要するに、ただお湯を沸かすのに、猛毒の放射性物質をつくり出すような燃料を使うから、こんな危険な、途方もない被害に遭うようなことになってしまったわけです。とり返しがつきません。これから先のことを思うとそら恐ろしくなります。
この発電法は、超危険で複雑な上に、つくられた熱エネルギーの三分の一しか「電気」にすることができない効率の悪いもので、三分の二は温排水として無駄に海に捨てています。海水を毎秒七〇トンもとり入れて原子炉を冷却し、放出する時は海水を七度上昇させています。原発は「海温め装置」だといわれるゆえんです。沿岸の生態系に影響を与えないはずはないでしょう。温排水の中には、化学物質と放射能も含まれています。
原子力発電の問題点はこれくらいではなく、まだまだ沢山あって多岐にわたります。「仕事量は被曝量だ」といわれる被曝労働なくしては原子力発電所は動きませんし、それは広島、長崎に原爆を落とされた日本で、今度は自ら日々、「ヒバクシャ」を生み出している、ということなのです。「核の平和利用」の美名の下に。そして、今回ようやく明るみに出てきましたが、原子力政策・産業は政治家・官僚・大企業・電力会社・学者がもたれ合い、利権の巣窟となっています。残念なことにはマスメディアまでもがその中にとり込まれ、メディアとしての十分な機能を果たしていません。そのためにほとんどの人は、こと原発に関して重大なことや真実を知らないままでいることになります。知らない、ということも知らないで―。
例えば、今すぐすべての原発を止めても停電しません。ピーク時でも電気は足りています。これは国の資料です。方法はあります。知らないし、知らされていないだけです。
早急に効率のよいクリーンな天然ガスタービンに置き換え、ピーク時の電気代を高くするよう時間別の電気料金を設定し、同時にその地域にあった小規模な害の少ない自然エネルギーを普及し、電力会社の独占をやめさせ、発電と送電を分離して送電を国民に開放すれば解決します。
原発をまず止めて、知恵を出し合っていけばよいことです。
これをきっかけに、日本人古来の知恵をもって、根元的な転換がはかられることを願っています。
しかし、さらに深刻なのは、このように人間の手で始末できない猛毒、しかも生命を確実に滅ぼす放射能、原発を動かすことによって生じた、今ある膨大な高レベル放射性廃棄物、これを人間の環境に触れないよう百万年間見守り、管理し続けなければならないと、二〇〇九年二月、アメリカ政府が発表しています。その間、巨大地震や大災害は起きないのでしょうか。いったい今生きている誰がそんな責任を持てるというのでしょう! これは、後世の人への犯罪ではないでしょうか。このような生命をおびやかす、いのちとひきかえの覚悟を要する発電法が許されるのでしょうか。
巨大地震の激動期に入った現在、地震列島の日本に五十四基の原発をのせ、いつまた、大地震に襲われるかわからない、切迫した状況にあります。
福島原発事故よりもっと大きな災害が起こるかもしれません。その可能性は大きいのです。
読者の皆様に問いたい。このような危険な「原子力発電」の存在を容認されるのでしょうか。それぞれの立場から、今のこの現実をどうとらえておられるのでしょうか。
その声を聴かせてください。
甘蔗珠恵子:一九四六年、福岡県生まれ。福岡県在住。著書に
「湧」一九八七年増刊号『まだ、まにあうのなら』、
新版『まだ、まにあうのなら』。