本文102〜103頁より 死について考えることは、死の準備や、未来の生に善いものをもたらす行ないを促すだけでなく、精神的な面においても驚くほどの影響を及ぼします。たとえば、死の確実性をよく意識していない人なら、たとえ年老いて死が迫っているのが明らかでも、友人や家族はそれを現実として受け止められず、歳のわりに若く見えると言って、その人を慰める必要すら感じます。言うほうも言われるほうも、嘘だとわかっているにもかかわらずです。なんと愚かなことでしょう! またときには、死ぬとわかっているガン患者でさえ、「死ぬ」とか「死」といった言葉を避けたがります。そんな人に、どうやって迫りくる死についての話ができるでしょうか。そういう人たちは、そんな話には耳をふさぎます。しかし、「死」という言葉さえ受け容れられない人々は、実際に死が訪れたとき、大きな不安や恐怖にとらわれる可能性があります。 他方、どうやら死が近づいているらしい修行者に会ったときには、わたしはためらいなくこう言います。「あなたが死ぬにせよ快復するにせよ、その両方に備える必要があります」そういう人とは、一緒に切迫した死について考えることができます。修行者は、後悔することなく死に直面するための準備をしてきているからです。 早いうちから無常についてよく考える人は、より勇敢に、より幸せに死を迎えることができます。死がいつやってくるかわからないと考えることが、安らいだ、訓練された、善い心をもたらすのです。なぜなら、その心は、この短い今生の表面的なことがらよりも大切なものを認識しているからです。 |