本文16〜17頁より 教えの本当の価値は、人間が生み出してきたすべての社会的、文化的要素を超えたところにある。そして教えが自分にとって、本当に生きているものであるかどうかを見るには、自分を制約しているさまざまな要素から、どの程度自分自身を解き放つことができたかをただ観察してみればよい。教えを理解し、またその修行の仕方も知っていると信じこみながら、実際には、自分自身の真の本質の悟りから遠く離れた態度をとりつづけたり、教義に縛られたままというのは、よくあることだ。 ラマがゾクチェンを教えるとき、そのラマはある悟りの境地を伝えようとしている。その目標は、弟子を目覚めさせ、その心を原初の境地に開くことだ。ラマは「わたしの作った規律にしたがい、指示を守れ!」と命令したりしない。「自分の内なる目を開け。自分自身を観察せよ! 悟りをもたらしてくれるような燈明を、外に求めるのはやめろ。自分自身の内なる燈明をともせ。そうすれば、教えは自分自身の中に生き、自分は教えの中に生きることになるはずだ」と言うのである。 修行者は、日常生活においても、教えの一番大切なエッセンスを実践する必要がある。ゾクチェンを、生き生きとした実践的知識とするのだ。もっとも重要なのはそのことだ。それ以外に特にやるべきことなどない。 仏教僧は、戒律を捨てずに、充分ゾクチェンを修行できる。カトリックの僧侶、事務員、労働者にしても同じだ。社会的役割を捨てることなしにゾクチェンを修行することは、まったく可能なのだ。ゾクチェンは、外側から人を変えようとしないからだ。 |